RYU : 構造と文明を俯瞰する帝王学の視点
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前置き+コメント
RYU が「構造と文明を俯瞰する帝王学の視点」を語っている。
視点のレベルを
庶民 < 経営者 < 帝王 < (文明の)俯瞰者
とランク分けし、経営者を庶民の上に位置づけているのが露骨だが、確かに給与生活者と経営者ではイヤでも世界が違って見える。
この RYU の 4階層の視点説は、
-
(a) (社会の経済システムにおける)雇用される側(庶民)と雇用する側(経営者)
-
(b) (社会全体における)制度の上で動く側(経営者)と、その制度自体の設計・構築側(帝王)
という 3段構造の上に、それらとは異質で範疇も異なる
- (c) 文明レベルの俯瞰者(賢者)
を不自然に載せたものとなっている。だから、チグハグ感が生じる。
上の a, b の階層の分類は(どこで分けるかという)切り口が露骨かつ明確で、この切り口ならこの階層になるのは、さして不自然ではない。
だが、c の「俯瞰の視点」は問題だらけ。なぜなら、c の「俯瞰した情景」も「俯瞰している視点」も、主観が創り上げた捏造品(=虚構)でしかないゆえに。
問題は、観る側の洞察力が不足しているから、主観が偏っているから、歪みがあるから…といった理由で、c が 捏造品/虚構 となるのではない。
「俯瞰の視点」…これ自体がそもそも 比喩表見 に過ぎない。それは錯覚であり、「実在する何か」を透徹した「精神の眼」で観るのではない(*1)。どこにも実在しないゆえに、間に合わせの 模造品/虚構 を脳内に捏ち上げ、それを遥かな高みの視点から視た気になっているだけ。実際は俯瞰どころか、距離ゼロ。
模造品/虚構 に過ぎず、どこにも実在しないゆえに「俯瞰の視点」は有用となる。つまり、臨機応変、融通無碍に応用が効く。敵方や論敵に好き勝手なレッテルを貼って批判できるのと全く同じ文脈で、「俯瞰の視点」は「レッテル」と同じ有用性をもつ。
もちろん、上記の
- (p) 俯瞰の視点は 模造品/虚構 だ
という「メタな俯瞰の視点」(p)それ自体にも同じことが言える。だからこそ、p は正しいw
(*1)
RYU が最高レベルとする「宇宙的俯瞰の視点」ですら、古今東西の宇宙観が正しかった試しは一度としてない。全て破棄されてきたゆえに、現在の科学的宇宙観も破棄される運命。
因みに、そのレベルに
- 釈迦、老子、ソクラテス、アインシュタイン、カール・セーガン
を RYU は列挙しているが、ここに突如、本質は科学解説者でしかない Carl Sagan が登場するのは違和感がある。
また、
- (社会の中の)人間の現象 : 釈迦、老子、ソクラテス
- 物理現象 : Einstein
という範疇のゴタマゼ感が残る。そして最大の難点は釈迦、老子、ソクラテスが
- 人間と社会に関する高度の「俯瞰をなし得た」
のではなく、
- 人間と社会に関する巧みな究極のキャッチ・コピーを編み出した
という点。彼らは俯瞰によって人間と社会の「真理」が見えたのではない。当時の人々が感銘を受け、説得されるだけの巧みなキャッチ・コピーを編み出し、そのキャッチ・コピーの影響力が現代まで続いている。その意味でイエスやガンジーもコピー・ライターの巨匠として追加されて良いし、序列を下ればマルクスや更にはヒットラーでさえその末尾に並ぶ。
以下、情報源を NotebookLM で整理した内容。
要旨
このテキストは、帝王学の視点に基づき、人生の質を決定づけるのは思考法ではなく「何を見ているか」という視点の高さであると説いています。
多くの人々が日々のニュースやSNSといった断片的な出来事に翻弄される一方で、真の成功者は物事の背後にある構造や数百年単位の時間軸を捉えています。さらに視座を広げれば、国家の枠を超えた文明の潮流や、執着を捨て去るような宇宙的な俯瞰視点にまで到達します。
著者は、目の前の事象から脱却して高い視点を持ち続けることこそが、知性を磨き人生を豊かにする本質であると主張しています。
最終的にこの俯瞰力は、自己中心的な不満から解放され、世界を冷静に愛するための帝王学の核心として提示されています。
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